オスマントルコ内のギリシャコミュニティで生まれたイシゴニスは、ギリシャとオスマントルコとの戦乱をさけイギリスに移住。大学を卒業して自動車エンジニアとしてのキャリアをスタートさせます。そして自作のレーシングカーでレースシーンを席巻していたところモーリス社に誘われ入社。ここからMINI誕生のドラマが動き出します。
モーリス社に入社したイシゴニスは自らが率いるチームで「モーリス・マイナー」という小型車を開発します。このモーリス・マイナーは戦後初となったロンドンモーターショーで発表され大ヒット。その後70年代初頭まで生産されるイギリスを代表する車となりました。そしてその功績が認められ、イシゴニスは押しも押されぬ人気エンジニアとなるのです。
イシゴニスは新天地のアルヴィスで新チームを結成し、早速TA350と呼ばれる中型のサルーンカーの開発に取りかかります。しかしこの新型車の開発は資金難からあえなく頓挫。イシゴニスはわずか3年ほどで古巣BMCへ舞い戻ることになってしまいます。しかしアルヴィスでの3年間は、FF車の構想を練ったり、後にMINIの開発で重要な役割を果たすアレックス・モールトン博士との出会いなど、実りの多い期間となりました。
◆ADO15(後のMINI)開発プロジェクト
BMCに返り咲いたイシゴニスを待っていたのは「Austin Drawing/Design Office Project No.15」というプロジェクト。ADO15、後のMINI開発プロジェクトでした。
◆スエズ危機がMINI誕生の契機に
実はBMCに戻ったイシゴニスが最初に手がけたのは中・大型車である「ADO16/17」の開発です。しかし1956年に「第二次中東戦争」が勃発。その影響でイギリスは中東から石油を輸入することが難しくなり、燃費の悪い中・大型車の開発は後回しになります。そこで浮上したのがコンパクトカーである「ADO15」=MINIの開発でした。ただこの方針転換はかなり急だったらしく、急かされたイシゴニスはティータイムを過ごしていた喫茶店でナプキンにスケッチを描いて提出。なんとそれがそのまま採用されて、FF車の大ベストセラーMINIとなったというエピソードがあります。
◆イシゴニス方式
BMC社の「超小型車を開発せよ」という指令には、さすがのイシゴニスも苦労をしました。それまでにはなかったエンジンを横置きにしたFF方式という画期的なアイデアを考え出したのですが、それでも会社が要求するサイズには収まりきらない。そこでイシゴニスはエンジンの下にあるオイルパンの中にギアボックスとデフを組み込み「2階建て」構造にすることでこの問題を乗り切りました。この構造は彼の名を冠し「イシゴニス方式」と呼ばれています。
◆友人アレックス・モールトン博士がラバーコーンサスペンションを開発
イシゴニス方式によってエンジンや駆動系の省スペース化に成功したイシゴニスでしたが、超コンパクトカーを目指すMINIには更なる問題が立ちはだかりました。それまでの金属バネのサスペンションが収まらないのです。これにはさすがのイシゴニスも困りました。お手上げ状態になってしまったのです。そんなピンチを救ったのはMINIベロと呼ばれる小径タイヤ自転車で現代にも名を残す「アレックス・モールトン博士」でした。実は二人はイシゴニスがアルヴィスでTA350を開発していた時、一緒に仕事をして意気投合、友人となっていたのです。曽祖父(そうそふ)から続くゴム製品の会社でエンジニアの経験を積んでいたモールトン博士はイシゴニスのリクエストに応え、ボディとアッパーアームの間の小さなスペースに収まる円すい状のラバーコーンを設計。見事にサスペンション問題を解決したのです。
イシゴニスが作り上げたMINIは小さなボディながら優れたハンドリング性能でファンを魅了しました。そしてそのハンドリングに着目し、MINIをモータースポーツの世界に引上げた人物がいます。イシゴニスの友人で1959〜1960年にF1世界選手権を制した天才エンジニア、ジョン・クーパーです。クーパーはイシゴニスに「もっとパワフルなMINI」を作ることを提案。エンジンをツインキャブ化してパワーアップしたモデルを発売します。「MINI・クーパー」の誕生です。その後クーパーは更にエンジンにチューンを加えたクーパーSも開発。欧州ツーリングカー選手権やモンテカルロラリー総合優勝など、輝かしい成績を残しました。二人の友情は新世代のMINIになっても、MINI・クーパーやJCW(ジョン・クーパー・ワークス)というモデル名になって今も引き継がれています。