創業直後、戦争特需で発展を遂げたBMWでしたが、敗戦によって急転直下、ピンチを迎えることになります。
「航空機の戦争」と言われた第一次世界大戦中に創業
第一次世界大戦は「航空機の戦争」といわれました。ライト兄弟の有人動力飛行成功から10年余り、戦闘機が最新鋭の兵器として大活躍したのです。
BMW(創業時の名称はバイエリッシェ・フルークツォイク・ヴェルケ株式会社=バイエルン航空機製造株式会社)はそんな第一次世界大戦(1914-1918)中の1906年に航空機用エンジンメーカーとして創業します。連合国と戦うドイツにとって、最新兵器である優れた戦闘機はどうしても必要なもの。そんな中BMWが持つ技術は高く評価され業績は急速に拡大しました。しかし良い時期は長くは続きません。1918年、ドイツは第一次世界大戦に敗れてしまうのです。
ドイツの敗戦 航空機エンジンの製造が禁止されてしまう
敗戦したドイツにはヴェルサイユ条約によって莫大な賠償金と、再軍備の禁止などが約束させられます。当然最先端兵器であった軍用航空機エンジンの製造は禁止され、BMWは会社を存続させるために鉄道用のブレーキ製造などで急場を凌ぐしかありませんでした。
オートバイ用エンジンの成功~「R32」の発売
しかしそんな苦境の中でもBMWのエンジニアたちはエンジン開発の手を止めませんでした。イギリスのオートバイメーカーダグラス社の500cc水平対向2気筒エンジンを分解して研究、自社エンジンの「M2B15」型として完成させるのです(現在のBMWのバイクのフラットツインエンジンはこのM2B15型の子孫にあたります)。この「M2B15」型エンジンは多くのバイクメーカーに採用されて大ヒット。BMWは息を吹き返します。そして1923年にはついに第1号のバイク「R32」を発売。このR32はエンジンの振動がシートやハンドルに伝わるのを抑えるため、一般的なチェーン駆動ではなく、車のようにシャフトで駆動力を伝える「シャフトドライブ」を採用し高い人気を得ます。こうしてBMWはまずバイクメーカーとして成功を収めるのです。そして2輪車メーカーとしての地位を確立したBMWは、満を持して4輪車開発を目指します。しかしその4輪車開発に待ったをかける大きな力がありました。当時BMWの大株主だった「ダイムラー・ベンツ」です。「うちの競合商品を開発することはまかりならん」という大株主の一声で、BMWの4輪車開発は暗礁に乗り上げてしまいます。
初の4輪自動車「Dixi 3/15PS」の発売
しかしBMWは4輪車開発を諦めません。『ダイムラー・ベンツが得意とする「高級大型車」じゃなければ競合しないじゃないか』と考えて「小型車開発」に活路を見いだすことにしたのです。そしてまずはイギリスの「オースチン・セブン」のライセンス生産を行っていたディクシー・アウトモビール・ヴェルケという会社を買収し、BMW初の4輪自動車「Dixi 3/15PS」を発売します。さらに1932年には完全自社設計・開発の「3/20 AM1」を発表。ついに念願の4輪自動車メーカーになったわけです。
4輪車開発と同時期、それまで禁止されていた航空機開発も解禁されます。BMWから分社化された航空機部門はメッサーシュミット社と合併し改称、その後ドイツが世界に誇る傑作戦闘機「メッサーシュミット」を生み出すのです。しかしこの頃から徐々に戦争の影が忍び寄ってきます。
念願の大型高級車の発売と第二次世界大戦の影
1933年になるとドイツではヒトラー率いるナチ党が政権を掌握。そのヒトラーは国威掲揚のため「モータリゼーション」の推進を掲げ、自動車開発に有利な政策を次々と打ち出します。そしてその政策に上手く乗ったBMWは高級大型車開発に乗り出し、1936年高級サルーンの「326」を発売。ここにBMWの悲願が達成されたのです。
国と共にBMWも分割・解体されてしまう!
しかし喜んでいたのもつかの間、第二次世界大戦でドイツが敗北すると国自体が東西に分割され、軍需企業だったBMWも東西に分割、解体されてしまいます。
- 西ドイツ側
ミュンヘンにあった工場はアメリカ軍に接収され、軍用車などの修理工場になります。最初は鉄くずを集めてきて鍋や釜を作って販売するといった悲惨な有様だったようです。しかしエンジニアたちはそんな環境の中でも開発の手を緩めず、1948年には「R24」というバイクを発売し、復活ののろしを上げます。
- 東ドイツ側
東ドイツ側のアイゼナハ工場はソ連に接収され、「321」や「327」といった戦前のモデルを生産しました。しかし自分たちのアイデンティティーであるBMWの「青と白のエンブレム」を使うことは禁止され「赤と白」のものに変更、社名もEMW(アイゼナハ・モトーレン・ヴェルク)と改称させられるなど、臥薪嘗胆を余儀なくされたのです。
高級車路線が失敗!倒産寸前に
R24のヒットで息を吹き返したBMWは再び4輪車開発に乗り出します。エンジニアチームはフィアット500のような小型車の開発を提案しますが、販売・マーケティング部門の「高級大型車」指向に押し切られ、発表されたのが「501」です。しかしこの「501」が失敗の始まりでした。501は全長4730mm、全幅1780mmという当時としては堂々としたボディーサイズの高給大型車でしたが、重量が1300kgもあるにもかかわらずエンジンが非力なために評判が芳しくなく、しかも労働者の平均月給が360マルクの時代に「2万マルク」と高額だったため販売が不調だったのです。その後も排気量を拡大した「502」や、高級スポーツカー「507」を発売しますが、どれもヒットには至らず、イタリアのイソ社からライセンスを受けた「イセッタ」が好評を得るも焼け石に水。ついには倒産寸前にまで陥り、1959年の株主総会では大株主であるダイムラー・ベンツの傘下で再建をはかるという「屈辱の提案」を受けてしまうのです。
「ノイエ・クラッセ」による復活
そんなBMW存続の危機の中、ホワイトナイトとして現れたのがヘルベルトとハラルトのクヴァント兄弟でした。クヴァント兄弟はBMWの株式を30%取得し筆頭株主になると、物を言う株主として新世代の「ミドルサイズセダン」の開発を指示。そして1961に発表されたのが「ノイエクラッセ」こと「1500」でした。この現在の5シリーズ3シリーズにもつながる傑作ミドルセダン1500シリーズでBMWは「駆けぬける歓び」を取り戻し、完全復活。第一次世界大戦から続く苦難の歴史に終止符を打ち、世界の高級自動車メーカーとして発展していくのです。
現在の誰もが知る高級自動車メーカーBMWが今日の姿になるまでには、紆余曲折の道があったことが分っていただけたと思います。2度の世界大戦はBMWに大きな試練を与えましたが、そこから生まれたバイクのフラットツインエンジンやシャフトドライブ、ノイエクラッセに始まる「駆けぬける歓び」は、現在にいたるまで脈々と受け継がれています。BMWのハンドルを握るとき、つらい苦境にもくじけなかったエンジニアを始めとする人々に、思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
Copyright 2020 Shonan/Toto BMW